倉嶋家らしく送り出すということ

「倉嶋といったら顔中落書きだよねぇ!…どうする?」
「落書きだらけにしたら文三さんと会えなくなるよ」
「じゃあ、私たちの顔に落書きしていくか?」
「親子孫総勢16人百鬼夜行
「お坊さんに怒られるわ!」
倉嶋家(旧姓)の家族葬、多少型破りであっても倉嶋家らしく送り出したい、
そんな思いを受けての家族会議。
さすがに、父の顔に落書きはせず、
遺影となる写真をもう一枚印刷し、パネルにし
一人一筆ヒゲやら眉毛やら髪の毛やら何やら描いて遺影と比べては笑い泣き。
7月21日明け方、最愛の父が旅立ちました。
ちょうど一年前末期癌が分かり入退院を繰り返し、
6月始めに在宅医療での緩和ケアに切り替えて1ヶ月と2週間でした。
その間一度救急搬送されましたが、きちんと帰宅し
どんなにモルヒネを強くしても意識が混濁することなく最後まで父でありました。
私が最後に会ったのは7月16日。
「『地図をもたないワタシ』20日オープンに向けて頑張ってくるね!
オープンしたらまた来るからね!
でもでも、いつも言うけど
これが最後かもしれないから何度でも言うね、お父さんありがとう!」
そんな会話とハグをして別れたのでした。
20日に無事オープニングを迎え深夜帰宅し、その明け方のことです。
父も今回の企画を応援してくれてたんだなぁと思います。
はじめての家族葬は、
葬儀場とはいえ和室もダイニングキッチンもなんでも揃う一軒家のようで、
家族全員でお清めや、母が選んだ和服での旅装束を整え
ゆっくりと丁寧な時間を過ごしました。
三途の川を渡るために必要な
六文銭」と、父が生まれる前に亡くなった父の父
私の祖父でもある文三さんと再会を楽しむための
「手書きの一千万円」をもたせ
2ヶ月近く、食べることも飲むこともできなかったので、
右手に大福とお握り、左手に酒、
エプロンや帽子と果物ゴロゴロ、
祖母からの贈り物を胸に
家族写真(どれもこれも酔っぱらい写真ばかり)と沢山の花に囲まれ納棺。
祭壇には笑顔の遺影のとなりに、
落書きだらけの写真と、
ビール片手にバスローブで寛ぐ父の写真、ふざけすぎか…と
思いましたが
辛い時こそユーモアを。
こんな型破りな倉嶋家を受け入れ
粛々と葬儀を執り行ってくれたお坊さんにも感謝です。
たまたまアメリカで研修中だった姪っ子は、スカイプでつないでニューヨークから参加。
形式にとらわれず自由にできる家族葬
コロナ禍だからこその新しいかたちだな、と思いました。
現在は生前父が望んでいた実家の群馬県みなかみ町にやっと帰りました。
まだまだ言葉になりませんが、
父は数奇な運命を辿ってきた人。
闘病中に書き残した言葉やメッセージが沢山あります。
今後少しずつ整理していきたいと思います。
ひとまず、生前父がお世話になった方々へ、
そして新潟との二重生活を応援してくれた皆様へ、
父と関わってくれたすべての皆様へ感謝を込めて。