石巻市を訪問し

karinmatasumori2012-02-24

震災後一年近くとなってやっとのことで、東北を訪れることができました。
きっかけはお世話になっている編集長が、バスツアーを企画してくださったこと。
仙台からバスを貸切り、石巻赤十字病院で震災当時の取り組みの講演を聞き、院内施設見学。
その後、仮設住宅、高台にある日和山公園から市内を展望、日本製紙石巻工場、門脇小学校、石巻魚市場、渡波、女川町立病院、雄勝町、最後に沢山の児童が犠牲になったという大川小学校。
一日で回るというハードなスケジュールですが、日帰りで参加できるのは一応主婦でもある私にとっては都合よく、手話通訳の友人とともに参加しました。
事前にすすめられて読んだのは「石巻赤十字病院の100日間」という本。
震災当時、ロビーは簡易ベッドで埋め尽くされ、水や食料、医薬品が底をつき、それでも押し寄せる患者とどう対応したのか。
不眠不休の極限状態の中での、医師、看護師、病院職員たちの記録が綴られています。


頭の中で想像はしていたものの、現地に足を踏み入れ
自分の目で見て、肌で感じて、その地を歩くという実体験は
想像をはるかに超える「被災地の空気」を感じることができました。

石巻赤十字病院の取り組みを伺い、実際に病院内を歩いて
ここが数知れずの傷病者であふれかえった場所なのだと
想像するだけで言葉を失いました。
当時の激しい揺れから医療器具や装置を守ったのが、免震構造だったとか。
講演後に、地下にあるその構造を見学しました。
激しい揺れを吸収したバネは変形し、ボルトもすべて揺るんでしまっていたそうです。


石巻港を見渡せる日和山公園から眼下をのぞんだときには、
驚くほどダイレクトに感じた潮の香りが忘れられません。
震災前だったらきっと、あの海辺の更地に様々な建物があり、人々の営みがあり
生活の温かなにおいを感じられる場所だったのでしょう。
それが今は遮るものもなく、海の風がどこまでも吹き渡っていくのです。
あそこにいた方たちはいったいどこへ…果てしない疑問がぐるぐると頭をまわります。


女川町立病院でバスを降りたとき、「何度もニュースで見た建物だ!」と思い出しました。
この病院は、海が近いものの10mの高さに建っています。
それでも病院の1階入口の柱に、1m92cmのところまで津波が上ってきたという記録が刻まれていました。
病院の下にあった建物は、横倒しになっており言葉を失う光景。


そして児童74名、先生10名の命が奪われ、4名の行方が今もわからない大川小学校。
近代的でおしゃれな造りの建物は、廃墟のように寒々しく、校庭はぬかるんでいました。
校舎と体育館をつなぐ渡り廊下は崩れおち、離れたところには場違いなほどカラフルな投てき板のような壁が残されていました。
卒業生たちが描いたイラストでしょうか。
銀河鉄道のイラストが大きく描かれ、
その中に
「未来を切り拓く」という言葉も書かれていました。
この子たちの失われた未来を、切り拓いていくのは
残された私たちなのだと強く心に留めました。
校庭の奥には山や竹藪が。
急な傾斜でしたが、どうして逃げなかったのかと、同じ小学生の母親として胸が痛む思いです。


様々な現実を目の当たりにし、まだうまく言葉がまとまりません。
帰りのバスの中から光をあびて静かに凪いでいる海と、北上川と平野を染める夕日があまりにも美しかったのが頭から離れません。
幾千万もの人々の命を奪い、生活を奪い、未来を奪った海。
それなのに、
それでも美しいと思えてしまうなんて。


これまで何度も周囲の人から、見るだけでも行ってみたほうがいい、と言われていました。
今回やっとのことで機会をいただきました。
間もなく一年。自分の目で見たことこそ本物だと、改めて思いました。